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第12話 鍵のかかった放送室

Author: なつめ
last update publish date: 2026-08-04 09:12:44

 死んだ透の呼吸が、古いスピーカーから流れていた。

 ひゅう、と喉の奥で震える息。短く吸い、途中で詰まり、細く吐き出す。その音は、生きている人間が苦痛に耐えているものとしか思えなかった。

 だが、床へ横たわる相馬透の胸は動いていない。

「止めて」

 美月の声が放送室を切った。

 朔が録音機の停止ボタンへ手を伸ばす。触れる直前、二つのリールは自ら速度を落とした。黒い磁気テープが最後に一度だけ震え、赤い表示灯が消える。

 静寂が戻った。

 奈々香の押し殺した嗚咽と、雨水が窓の鉄格子を伝う音だけが残る。

 美月は透の首元へ膝をついたまま、もう一度頸動脈を確かめた。次に胸へ耳を当て、瞼を持ち上げる。小型のライトを瞳へ向けても、反応はなかった。

 手袋を替え、腕時計へ視線を落とす。

「午前零時四十六分。死亡確認」

 言葉は平らだった。

 救命救急の現場で、何度も口にしてきたのだろう。けれど最後の音だけが僅かに掠れた。

 奈々香が床へ座り込んだまま首を振る。

「確認って……そんな言い方しないでよ。さっきまで話してたじゃん。澪たちとも、私たちとも……」

「分かってる」

「だったら、何かしてよ」

「もうできることはないの」

 美月は透の顔から目を逸らさずに答えた。

 声を荒らげなかった。その静かさの方が、奈々香の泣き声を弱くした。

 透の首には、黒い磁気テープの跡が何重にも残っている。皮膚へ食い込んだ帯状の圧迫痕は、喉の前より左右から後方へ向かって深くなっていた。首の後ろには、強く引かれたテープが皮膚を裂いた細い傷もある。

 美月は傷へ指を触れず、角度だけを確かめた。

「亡くなってから長くは経ってない。身体はまだ温かい。皮膚の色と瞳の状態から見ても、数分から十数分以内」

「俺たちが扉の前にいた時間と合うってことか…」

 悠斗が低く訊いた。

「ええ」

「なら、俺たちが見てる前で死んだ」

「そうなる」

 悠斗は放送室の扉を振り返った。

 蝶番を外され、内側へ倒れた重い扉。錠前には折れた共通鍵の先端が残り、つまみは施錠の位置へ回っている。

 出入口はそこだけだった。

 朔が懐中電灯を手に、室内を確認していく。

 窓は二つ。どちらも内側の金具で閉じられ、その外側には太い鉄格子が嵌め込まれている。錆は厚く、最近動かした跡はない。遮光幕の裏へ積もった埃も乱れていなかった。

 壁の上部には換気口があった。

 悠斗が椅子を立て、格子へ手を掛ける。古い螺子を外して中を照らしたが、穴は人の頭が入るかどうかの幅しかない。奥では配管が曲がり、十数センチ先でさらに狭くなっていた。

「子どもでも通れない」

 悠斗は椅子から下り、苛立ったように格子を戻した。

 床には厚い埃が積もっている。

 五人が踏み込んだ場所には新しい靴跡が重なっていたが、その下に残っていた古い筋を追うと、放送室の入口から録音機まで続く足跡は一人分しかない。透の靴底と同じ細長い形だった。

 窓の下にも、放送卓の裏にも、別の足跡は見つからなかった。

「自殺だ」

 悠斗が言った。

 澪は、透の首から外されたテープへ目を落とした。

 表面には汗と血が薄く付着し、ところどころ爪で削られて白く曇っている。透は最後まで外そうとしていた。自分で死を選んだ者の手ではなく、突然襲われた者の手の跡に見えた。

 八年前から、透は恐怖を声にしない人間だった。誰かが騒げば黙って音量を下げ、危険を感じれば説明する前に機材を止めた。澄花が消えたあとも、警察の質問に必要なことだけ答え、泣きも怒鳴りもしなかった。

 だから誰も、彼が何を恐れていたのか知らなかった。

 昨夜までの沈黙を、臆病さではなく冷静さだと思っていた。けれど今は、声にすれば誰かへ届いてしまうものを、ずっと喉の奥へ閉じ込めていたように見えた。

 誰もすぐには反応しなかった。

「透が自分で鍵を掛けて、テープを首へ巻いた。それが機械へ絡んで締まった。そう考えるしかない」

「違う」

 美月が即座に否定した。

「何が違う」

「圧迫痕の向き。自分で前から巻いて引いたなら、傷は顎の下から後頭部へ斜めに上がることが多い。でもこれは左右からほぼ水平に食い込んでる。首の後ろで一度まとめて、背後から強く引かれた形よ」

「機械が後ろにあっただろ」

「透が自分で何重にも巻き、正確に機械へ端を通し、再生と同時に締まる位置へ立ったと言うの?」

「追い詰められてた。何をするか分からない」

 悠斗の声が強くなる。

「死んだ人間の考えを、都合よく決めないで」

 美月が立ち上がった。

 白い手袋には、透の首から移った僅かな血が付着している。彼女はそれを見下ろし、指を握り込んだ。

「透は音の正体を知りたがっていた。自分で聞くためにここまで来た。首を絞める準備をするためじゃない」

「じゃあ誰がやった。部屋には透しかいなかった!」

 悠斗の声が壁へぶつかる。

 奈々香が肩を震わせた。

 澪は床へ横たわる透を見た。

 薄く開いた目は、倒れた扉ではなく録音機の方角へ向いている。最後まで、そこにいた何かを見ていたようだった。

「装置を調べる」

 朔が言った。

 感情を押し込めるような低い声だった。

 録音機の電源コードは壁の差し込み口へつながっていない。校内の電気は落ちている。それでも機械は動いた。朔は背面へ回り、懐中電灯を床近くへ向ける。

 大型の筐体の下には、埃に半分埋もれた黒い箱が固定されていた。

「持ち上げる。悠斗、反対側を持て」

 二人が録音機を僅かに傾ける。

 美月が光を差し込むと、金属製の小型モーターが見えた。新しい電池と簡単な制御基板が取りつけられ、細い軸がリールの回転部へ接続されている。

 八年前の機材ではない。

 部品の表面にはほとんど錆がなく、配線を束ねる樹脂も柔らかかった。

「最近取りつけられてる」

 朔は工具で黒い箱の蓋を外した。

 内部には受信機と時限装置らしき基板がある。さらに、リールの軸から透明な糸が一本伸びていた。

 釣り糸よりも細い。

 光を斜めから当てなければ見えないほど透明だった。

「これでテープを引いたの?」

 奈々香が立ち上がれないまま訊く。

「可能だ」

 朔は糸へ直接触れず、先端の向きを追った。

「録音テープを透の首へ絡ませておき、モーターを遠隔で作動させる。糸で端を引けば、リールの回転に合わせて締められる」

「やっぱり誰かが殺したの?」

「少なくとも、装置は人間が作った」

 朔の答えに、奈々香は唇を噛んだ。

「誰が」

「まだ分からない」

「私たちの中にいるってこと?」

 その言葉へ、五人の視線が一瞬だけ交わった。

 澪。

 朔。

 美月。

 悠斗。

 奈々香。

 透を除いた五人。

 誰も互いの目を長く見られない。

 朔は透明な糸を追って壁際へ進んだ。糸は床を這い、放送卓の裏を通り、壁の下部に開いた小さな穴へ吸い込まれている。

 穴は指一本が入る程度だった。

 朔が細い棒を差し込むと、奥に空洞がある。棒は二十センチ以上進み、途中で金属へ触れた。

「配線用の空間だ」

 悠斗が壁を叩く。

 鈍い音の中に、一か所だけ軽い反響が混ざった。

「反対側に通路があるのか」

「人が通れる幅かは分からない」

 朔は糸を僅かに持ち上げた。

 途中で切れている。

 切断面は鋭く、引きちぎられた形ではない。放送室の内側へ残った部分は床に落ち、壁穴の向こう側は闇へ消えていた。

「誰かが向こうから引いたあと、糸を切った」

 美月が言う。

「その可能性が高い」

「向こうへ入る扉は?」

 五人は壁沿いを調べた。

 放送卓を動かし、棚の背面を確かめ、廊下側の壁も叩いた。隠し扉らしい継ぎ目はない。廊下の反対側は外壁で、その先には三階の高さの空間しかなかった。

 人が糸を操作したのなら、どこにいたのか。

 透明な糸だけが、壁の中へ続いている。

 朔は壊れた錠前も分解した。

 内側のつまみから閂へ続く金具には、新しい擦過痕がない。糸を通して外から回した形跡も、ばねを細工した跡も見つからなかった。透が入室後に自分で施錠したことだけは、録音とも一致している。

「犯人がいたなら、透が鍵を掛けた時点で中にいたことになる」

 奈々香の呟きへ、誰も答えなかった。

 放送室へ入る前、透は『一人じゃない』と言った。

 あれが比喩でも混乱でもなかったなら、彼は扉を閉める前から、室内にいる何者かを見ていたことになる。

 美月はスマートフォンを取り出した。

「警察と救急へ連絡する」

 画面には圏外の表示が出ている。

 窓際へ移動しても、鉄格子の隙間へ端末を近づけても変わらない。緊急通報を試みるが、接続音すら鳴らなかった。

「私のも駄目」

 奈々香が割れた画面を見せる。

 悠斗の端末も、朔の端末も同じだった。

「外へ出る」

 美月は透の身体へ自分の上着を掛けた。

「このまま置いていけないけど、五人で運ぶには階段が危険すぎる。まず門を開けて、救助を呼ぶ」

「廊下がまた戻されたら?」

 奈々香が訊く。

「それでも、ここに留まるよりいい」

 美月の声は震えていなかった。

 だが、透の髪を上着の内側へ入れる指だけが、何度も同じ場所を撫でていた。

 澪は床へ落ちていた透のスマートフォンに気づいた。

 画面は暗い。

 拾い上げると、顔認証は働かなかったが、録音機能だけが動作したままになっていた。透は音響作業のため、一定以上の音を検知すると自動で録音を開始する設定にしていたらしい。

「死亡直前の音が残ってる」

 澪の言葉に、全員が動きを止めた。

 記録時間は二分四十七秒。

 朔が端末を受け取り、機内モードを確認してから再生した。

 最初に、放送室へ入る透の足音が聞こえた。

 扉が閉まり、内側から錠が回る。

 次に、古い録音機へ近づく衣擦れ。

 透の呼吸は速いが、まだ苦しそうではない。

『誰だ』

 透の声がした。

 誰かが目の前にいるような問いかけだった。

『どうして、その音を持ってる』

 無音。

 遠くでリールが一度だけ回る。

 そのあと、少女の声が答えた。

『やっと一人』

 奈々香が美月の腕を掴んだ。

 澪の背中へ冷たい汗が流れる。

 録音の透は何かを言おうとした。だが、急に息が詰まり、喉から短い音が漏れる。

 機械が動き始めた。

 テープの回転。

 靴が床を擦る。

 机へ手をつく音。

 透が必死にテープを外そうとする爪の音。

 五人が扉の外から名を呼ぶ声も、網入りガラスを叩く音も、遠く歪んで記録されている。

 やがて、透の呼吸が途切れた。

 そこで終わると思った。

 録音は続いていた。

 誰もいないはずの放送室で、足音がした。

 一人ではない。

 上履きのような軽い音が、透の身体の周囲をゆっくり歩いている。

 ぺたり。

 ぺたり。

 別の足音が重なる。

 三人。

 四人。

 さらに増えていく。

 透の周囲を円を描くように歩き、時折立ち止まる。衣擦れと、子どもの浅い呼吸。爪で床を引っ掻く音。

 美月は透の身体を見た。

 床の埃には、その足跡が一つも残っていない。

 最後に、少女が端末のすぐ近くへ顔を寄せた。

『次は、忘れた人』

 録音が終わる。

 澪は息を吸えなかった。

 忘れた人。

 八年前の記憶が欠けているのは、自分だった。

 朔が録音情報を開く。

 開始時刻と終了時刻が表示される。

 終了、午後十一時三十八分。

「違う」

 悠斗が画面へ顔を近づけた。

「今は零時を過ぎてる」

 美月も腕時計を確かめる。午前零時五十八分。録音が終わったのは、ほんの数分前のはずだった。

 だが、透の端末には午後十一時三十八分と記録されている。

 八年前、澄花が映像の中で理科準備室へ閉じ込められた時刻。

 澪のポケットで、赤い組紐が濡れた。

 取り出すより早く、透のスマートフォンが再び震える。

 新しい音声ファイルが一件、作成されていた。

 その名を見た瞬間、澪の視界へ白い光が走った。

 閉じた木の扉。隙間から伸びる細い指。内側で何度も爪が滑り、赤い筋を残している。

『澪ちゃん』

 声の向こうで、誰かが小さく笑った。

 思い出しかけた顔は、すぐに暗闇へ沈んだ。代わりに右手の掌へ、古い痛みが蘇る。確かめると、生命線に沿って一本の白い傷があった。いつ負ったのか、澪は覚えていなかった。

 ファイル名には、白い文字でこう表示されていた。

 雨宮澪 忘れた八分十三秒

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